――今回は草の根の歩みから見る社会の変化ということで、皆さんがどういう風に草の根と関わり始めたり、続ける中でどのように感じられたりしたのかをお聞きしようとお集まりいただきました。ランチを食べながら、よろしくお願いします。
[座談会メンバー]
永井文子…名古屋市子ども若者総合相談センター センター長(2011年草P参加)
山口恭美…名古屋市子ども若者総合相談センター 相談員(2012年草P参加)
榊原明美…名古屋市子ども若者総合相談センター 副センター長(2012年草P参加)
榎本雄太…名古屋市子ども若者総合相談センター 相談員(2014年草P参加)
※聞き手:大島迪子…名古屋市若者・企業リンクサポート 就労支援員(2019年草P参加)
“孤立の川”を渡った人の背景を教えてもらいに行く活動
――この中では永井さんが一番早く草Pに、立ち上げから参加されていますね。草Pが始まったころは、区役所でお勤めだった。
永井)区役所で、ひとり親の相談員をしてました。その前職の生活保護家庭向けの就労支援員の同期だったのが、(草の根代表となる)渡辺さんです。
役所って基本的には異動が前提だから、その部署にいる職員さんも、福祉や支援に対する熱量に個人差はありました。その中でも、想いを持って仕事をしている人たちと仲良くなれたのはラッキーでしたね。渡辺さんもそのうちの一人。あと、生活保護やひとり親の制度そのものがめちゃくちゃ面白いと思いました。
区役所っていうのは、本来誰がいつ来てもいい場所で、そういうところに自分がいて、何かあったら役に立てることがあると思えた経験はすごくよかったですね。
窓口には、例えばちょっとお酒が入って大きな声を出している方もいらしたんだけど、自分の父親とそう変わらないなと思ったの。父は、今でいうアルコール依存症の人で。そういう職場だったので、草の根に参加してからも、私たちが応援する人たちというのは、ある意味、身近な感じというか、隣の人というか。当時は草Pも今のように事業をたくさんやっていたわけではなかったので、ボランタリーに関わっていて、仕事のあとにやる部活みたいな感じで参加していました。
――次に山口さんが草の根の活動に関わり始めたのですよね。
山口)2012年ぐらいの(愛知県精神障害者家族会連合会の)講演会で、渡辺さんとばったり再会したんです。もともと家が近くて、お互いの子どもが同じ学童に行っていて、顔は知っている保護者同士でした。わたしは、精神疾患を持つ妹のことや、自転車の事故で高次脳機能障害を負った息子のことがあって、あいかれんの活動に参加していたんですが、渡辺さんとはそんな話をしたこともなかったのに偶然会って。それでできもち(*1)に誘ってもらった。講演会からしばらく経って、草Pのパンフレットとかチラシとかが、せんべいとチョコと一緒に家のポストに入ってた(笑)。
そのできもちのときに、孤立の川(*2)っていう考え方の説明があったんですけど、「なんでわかるの?文字にできるの?」ってびっくりした。妹が統合失調症を発症して入退院する中で、まさに「孤立の川」を渡ったという経験があって、わたしにはわかっていたことだけど、なんで渡辺さんがわかるの!?スライドにできるの!?って衝撃でしたね。休憩時間に渡辺さんのところに駆け寄ってその衝撃を伝えましたもん(笑)。
それまで、何か「共有しよう」という場がなかったのもありますね。実際に現実に起こっている出来事をキーワードで表したり、構造図にしたり、スライドにしてそれを誰かと分かち合ったりするということもなかった。知ろうとしてくれる人も少ないし。できもちで、そういうのを見て、「つながるってこういう意味なのかな」っていうのもちょっと思いました。
*2 孤立の川
――そこから週末に草の根の活動で、猫の手バンク(*3)に参加されて、困窮している人のところへ訪問するようになったんでしよね。
山口)当時、仕事では生命保険の営業をやっていて、所長にもなって、部下もいて、毎週の達成額に向けてお客さんを回るという毎日でした。だから、“生保”って言えば生命保険でした。生活保護ではなくてね。
平日はそうやって働きながら、週末になると草Pの活動に参加していたんですが、週末に会う人、とくに困窮している人の状況というのは衝撃的でしたね。私自身、家族のことや自分のやんちゃな過去もあっていろいろ経験してきたんだけど、でも、お金に困っている人の生活は知らなかったから。
*3 猫の手バンク…困りごとのある人のところへ駆けつけるボランティアバンク。草Pの自主事業として、2011年~2014年ごろ活動。
「できない」って言ったもん勝ちの文化
――榊原さんも、草Pができたころには区役所にいらした。そこで、よりそいホットラインの相談員として声をかけられたと聞きました。
榊原)「時給がいいバイトがあるよ」って永井さんに飲み会で誘われました(笑)。よりそいホットライン(*4)の相談員の募集のことだったんですけどね。区役所で、ひとり親の相談員として働き始めたころで、それが一日6時間の勤務だったこともあって、バイトもできるかなと。
草Pは、「できない」って言ったもん勝ちな雰囲気があって、だからこそ「得意なところはやります!」と言いやすかった。私でいうと、Word関連のこととか。よりそいホットラインの集計業務的な事務もやるようになりました。草Pは、個性的な人しかいなかったことと(笑)、相談員の研修も充実していて、現場の生の声を知っている人からたくさんのことを学ぶことができたのも魅力でしたね。
*4 よりそいホットライン地域センター愛知・・・全国共通のフリーダイヤルの電話を、愛知近郊分を受けていた事業。2012年~2015年実施。
――そこから少しして、2014年ごろから榎本さんも草Pに近いところにいらした。
榎本)最初は、子若(*5)ができた翌年くらいに、区の集まりで渡辺さんがゲストスピーカーで来ていて。「なんか面白そうな匂いがする」と思って、ね。なんとなく分かるじゃないですか。面白い人が集まるところ、次がありそうなところ、とか。勉強会とか交流会とか、集まるタイミングがあると参加していました。
その時の僕は、行政書士になりたてでもあったから、この界隈にいると福祉的な事業を始める人が増えそうだぞ、新しいことが動きそうだぞ、とビジネスチャンスの気配を感じていたのもあった。でも自分はそれだけで動けるタイプでもなくて、自分の欲望というか、興味もあってそこにいた感じです。
*5 子若…子ども若者総合相談センターの略称
山口)だけどさ、あの頃集まりが終わると、シャーって帰っちゃってたよね(笑)。
榎本)ダメなのよ。集まりが終わって、意味のない状態に人が集まって意味を探しちゃう、そこで自分と向き合っちゃうのが(笑)。寂しいぞ、とか、誰かと友達になりたい俺、とか。
「つながり」や「関係性の支援」のマインドが広がってきた、かも
――みなさん徐々に、当時の“本業”を辞めて草Pのスタッフとなられました。大きな変化としては何か感じられていますか?
榊原)2011年前後からというと・・・リーマンショックがあって生活困窮者が増えて。社会福祉に関わる制度はどんどん充実していった。東日本大震災もあって市民のボランタリーな動きや、それに対する社会の関心も高まった。今までのNPOとは違う流れの新しい動きがガンっと増えた感じは受けてますね。
だから、草Pの活動はそういう流れの最先端なんだろうなと思ってはいました。
山口)「やさしい」とか「丁寧」とか、「つながる」って言葉をテレビなどでもよく聞くようになったかな。以前から渡辺さんは言っていたし、草の根の活動の中で聞くことはあったけど、メディアで耳にすることはなかった。この2,3年はコロナの影響もあるのかな。
永井)「関係性の支援」って草の根は以前から言っていたことではあるけど、前よりずっと、スムーズに伝わるようになった感触はあるね。もうそんなに説明が必要のない感じ。
榎本)僕は、意外と変わってない部分と変わってる部分があるなと思っていて。ツールは変わったかもしれないけれど、本質的な人のありようとか人間関係を築くときの不器用さとかがすごく変わったのかって言われるとよくわかんないです。
基本的に僕は「良くなる未来」みたいなこと、あんまり考えてないんです。どんな時代でもしんどいとか、辛いとか、絶望とか幸せとか常にあると思ってるので、今自分が生きてる中でできる範囲のことって何かなーって。
――そういう考え方がないと、こういう活動ができないかもしれませんね。
榎本)それもあるけど、僕自身が姉とか兄とかが精神疾患を持ってて、そうすると「今日はすごく大変なことが起こる日」みたいなのがあるじゃないですか。どうしようもなく、そこにいるしかない、みたいな。その日その日、それに出会っちゃったらしょうがないかーっていう感覚です。
そういう意味では、支援者としてのバックグラウンドが何もないまま草Pに参画したので、支援者としてどうしたらいいんだっていうのは大変でしたね。だから、草Pの周りにいた専門家の先生や、支援者の先輩たちには助けられました。なんか、「頑張りなさい」みたいなこと言われて、はい、「頑張ります」みたいな(笑)。
少し経験を重ねてきた今の方が、逆に理屈に走ってんなー、気をつけないとな、と思うことがあります。